ブログをご覧のみなさん こんにちは
デイケアの野﨑です。
8月15日は何の日か分かりますか?
「終戦の日」です。
私も年齢を重ねるたびにこの終戦に対する考え方は変化してきています。
日本は世界で唯一、原子爆弾の被爆国となっています。
1945年
8月6日に広島に原爆投下
8月9日に長崎に原爆投下
莫大な被害を受けた日本は8月14日に「ポツダム宣言」を受諾し
8月15日に昭和天皇による「玉音放送」によって敗戦が伝えられました。
当院デイケアには広島で爆心地から1.5kmの場所で被爆された方がいらっしゃいます。
私はご本人様から直接当時の話を聞く機会が何度もありました。
被爆された場所はコンクリート造りの建物で、どうにか命を取り留める事が出来たとの事でした。
被爆者の方の平均年齢も85歳と高齢化が進んでおり、実際の体験談をお聞きする機会も年々減っています。
今回はご本人様から直接頂いた文章をそのまま掲載する機会を得ることが出来ましたので
皆様にお伝えさせて頂きます。
以下文章を記載
昭和20年8月6日(原爆と私) 「入学して4か月」
当時、広島赤十字病院の看護学生(1年生)学生間で伝染病(毒痢蔓延)その中で一人隔離中に被爆。
午前8時15分、検温の為ベッド上に座ると同時に青白い光線で部屋が何も見えなくなり、宇宙が破裂するような爆破音、爆風で身体が宙に浮く、一瞬にして意識不明・・・
気付いたのが病院玄関前広場、羅災者の中でした。
玄関前の広場は黒煙で空も見えない薄暗い中で、性別も分からない姿、私服はボロボロに焼けただれ、皮膚全身引きずって目前で倒れていく姿も折り重なって・・・
生き地獄の世界、体を寄せ合った被災者、顔面、人の顔ではない形相、身体全身皮膚が剥がれ性別のつかない虚像。
恐怖に戦く事もなく隣り合わせに横たわった一昼夜、「みずー」「おかあちゃん」「かんごふさーん」の声も次第に消え、夜明けとともに躯となっていく姿、動くこともできない自分の姿、身につけている下着はボロボロと寝着としていた浴衣の着物は爆風に剥ぎ取られて下着だけボロボロの姿、当時生き残った人々皆々の姿だったこと想像できない娘の姿だったと思います。
被災3日後、死体処理、焼跡地に運び焼却、性別の分からない被災者、どこの誰かも解らぬ被災者、次々と山積み点火、只々茫然、夜空は炎の明かり、路上の雑魚寝・・・
「防火用水(当時)戦災の際にセメントで作られ非常用水を飲拝」被災後の飲水・・・
被災3日後、陸軍兵士によって「カンパン」支給、兵士の古衣、シャツ、モモヒキ(股下)支給・・・を身につけ行動。
病院医療活動絶無・・・核の恐ろしさ、語るにも表現できないのが事実・・・
原爆・・・一瞬にして地獄の世界。
被爆4日目、宮崎県出身学生、帰国許可
8月9日、帰郷行動開始(金もなく、一片の紙もなく)、病院を後にして焼跡地1日中さまよい歩いたこと。市街地だったビル跡、電車通、河川、人体失った黒焦げの死体。河面に浮いている犠牲者ぎっしりの中、橋もなく河面にいる犠牲者を除けながら河を渡り広島駅へ跡形もなく焼跡、死体がいまだに脳裏から消えない。
こい駅指示され、終日炎の残る焼跡地の行動。広い広島、終日飲料がすべてない。さまよい歩いた一日。焼失した駅跡(こい駅)で一夜を明かす。争いのない地球、世界、心から祈ることです。
当時空襲によって国鉄(鉄橋破壊)、汽車もなく途歩の旅、5日間鉄道路線が唯一の道標、寝るところは線路上、食は草の根っこ等を食べ、水は田園河川の水、当時各所で被災した人を皆々徒歩で行動、紙、ハンカチ全くなく素手の旅、当時16才の娘の旅でした。
今となっては懐かしい想い出、私の心の宝となっています。
現在いささか米の値も上昇、店頭の品々、国内国外の品々・・・自由に選ぶことが出来る品々・・・私の心は戸惑いでいっぱいです。平和とは?・・・
当時、広島赤十字病院は日本陸軍病院に指定されていた。入院患者は陸軍傷病兵収容、学生の救出活動は主となって活動し、私も兵士の手で救出されたこと30数年後広島の赤十字病院で犠牲者法要の時、知ることが出来ました。
以上になります。
色々な想いを文章にして頂き感謝申し上げます。
最後に・・・長崎でのつらい被爆経験を詳細に記載して頂いたご利用者様に「感謝」
連絡先:0985-20-6756
担当:野﨑